近江野洲の北村は、かつては和歌や俳諧連歌の盛んなところで、
近くの永原天神(菅原神社)には、藤原定家(平安時代)や宗祗(室町時代)も訪れ、
歌会や句会が度々開かれたそうです。
北村季吟の祖父は医者であり、教養も高くて連歌の会の中心だったようです。
季吟の父は次男であったので、京都に出て医者の修行をしていたようで、
その子の季吟はその京都で生まれたようです。
医者になるべく修行をしますが、学問や俳諧が好きだったようで、
京都で松永貞徳に師事した頃から、俳人として有名になっていきます。
松尾芭蕉は季吟の弟子の一人で、伊賀や京都で教えています。
「源氏物語湖月抄」を出版し、町人にもわかりやすく源氏物語を解説したことで有名です。
土佐日記や伊勢物語などたくさんの古典を研究している江戸初期の国文学者です。
大学等で国文学を習った方は、よく知っておられると思います。
京都にいる間は、けっこう生活が厳しく、
新玉津神社の神官になってもなお生活は苦しかったのですが、
俳句だけでなく、苦手だった和歌も勉強して、ついに
息子の湖春とともに、幕府の歌学方として江戸に
行きます。
ここから生活は一変します。
北村家は代々幕府の歌学方になっていきます。
季吟は徳川綱吉の歌の先生になったわけで、江戸でもすごく有名になりました。
でも、故郷とした近江野洲の北村にもなんどか帰郷し、たくさんの句を詠んでいます。
祇王井に とけてや民も やすこほり
の句碑が、菅原神社にあり、
息子の名前を湖春としたように、季吟の故郷は近江の北村と思っていたようです。
地元の小学校の校歌にも季吟の名が歌われています。
少年像が校庭にありますが、松尾芭蕉ほど有名でないのが悲しいです。
それにしてもこの辺りは京都まで歩いて一日の距離で、
京都は江戸初期では、学問の中心でもありました。
志ある人が京まで出て医者になるにも、漢学、国学は基礎教養みたいなもので
できる人はなんでも良くできたんだなぁ
今の時代も、すごい人はいろんなことができるし、
面白いんだろうなぁ。
視力や脳の働きが劣って行く前に、もっと学問しないと、、、
どんどん衰えて行くだろうなぁ。
今から何ができるというのか?
資金は限られている。
何ができるかな?
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