賀川豊彦とW.M.ヴォーリズ
賀川豊彦とW.M.ヴォーリズ
大正・昭和初期のキリスト教社会運動家・賀川豊彦の活動は、
労働組合、農民組合、生活協同組合、社会保険、平和運動など、
多岐にわたっている。
賀川豊彦は1888年(明治21年)、神戸で海運業を営む賀川純一と、
徳島の芸者・菅生かめの間に生まれた子である。
祖父の頃の賀川家は大庄屋で、藍商としても隆盛を極めていたが、
男子の跡継ぎがいなかったため、隣村の酒屋・磯部家から
純一を養子に迎えた。
純一は少年の頃より藩校や有徳学塾で学ぶ秀才であった。
明治7年には自由民権運動の結社「自助社」で活動し、
やがて板垣退助に推挙され明治政府の書記官になっている。
民権運動の取り締まりを逃れた純一は徳島に帰り活動するが、
その自助社も解散に追い込まれた。
それを機に純一は政界から身を引き実業界に転進した。
純一は社会の動きに敏感で、政治的リーダーとしての
才能を発揮して社会の改革をしようとした。
これに対してその子、豊彦は社会の下層にいる人たちの
立場から改革しようとした。
2人とも指導力があり人を引きつけるカリスマ性を持っていたといえる。
父純一が44歳でなくなり2ヵ月後には母が亡くなった時、
豊彦は4歳であった。
相次いで両親を亡くした豊彦は、父親の実家・徳島の賀川家の
後継ぎとして引き取られることになった。
しかし正妻の子ではなかったため、義母や周囲から嫌がらせを
受けることも多く、孤独な少年時代を過ごしている。
豊彦は自分の生まれに深く傷つき、生涯そのことに苦しんだ。
自分は、母が貧困のため身売りされ妾となって産んだ子で
あったということが、その後の豊彦の生き方に大きく影響している。
幼少から少年期の「愛に飢えた孤児」のような成育環境が、
やがて「神の愛」にめぐり合わせることになる。
豊彦は徳島中学時代に英語教師でクリスチャンであった
片山先生を通して、徳島教会の2人の宣教師、
ローガン博士とマヤス博士に出会っている。
豊彦が中学4年の春、賀川家が破産すると
学費も払ってもらえず、身の置き所がなく
絶望のふちに立つことになる。
そんな豊彦にとってキリスト教の聖書の言葉は生命の水であり、
生きる希望の光だった。
マヤス宣教師からキリスト教の洗礼を受けたのは、豊彦15歳の時だった。
中学卒業後は上京して明治学院神学科予科2年を修了し、その後
新設された神戸神学校に進学する。
その頃、結核性の発熱等で死線をさまようが、
奇跡的に命を救われた豊彦は、神戸神学校の寄宿舎を出て、
神戸・新川の狭い地域に約6000人の貧民が住む
「スラム街」(貧民屈)に住むことにする。
ここでは、貧困、病気、悲惨、犯罪が充満しており、
「もらい子殺し」の現実にショックを受ける。
生後まもない乳児を一人5円(約1万7千円?)でもらい、
たらいまわしにしたあげくに栄養失調で死亡させたりする
「もらい子殺し」が行なわれていた。
子どもが生まれても育てることができない事情がある場合、
あずかって育てる施設がないのである。
豊彦は貧しさゆえに悲しい運命をたどる子どもたちに心を痛め、
自らの無力になげいていた。
ただ豊彦が生涯心がけたのは、日本の社会の底辺で暮す
貧しい人々に対する愛情であった。
貧民屈に入って5年目、貧民救済活動にも
限界を感じていた豊彦はアメリカへの留学を決意する。
アメリカでの留学を終えると、日本での貧民救済運動は
労働者運動から始めると決意した豊彦であったが、
労働争議が資本家から抑えられ、労働運動が過激化すると
労働運動から遠ざかっていき、農民運動に取り組むようになる。
農民運動の中心的な活動が農民福音学校である。
西宮市瓦木村の「日本農民福音学校」で、1927年から42年の15年間続けられた。
生徒は、北海道から琉球まで全国から集まった。
賀川はさまざまな活動で忙しく4時間しか睡眠時間がない中で、
農民福音学校の間は、最初と最後の1週間は
必ずみんなと寝食を共にし、午前中3時間の講義を行った。
この学校にかける彼の意気込みがわかる。
この学校を卒業した人たちが、郷里に帰り、稲作だけでなく、
畜産や果実など、また時計やハムの工場を作るなど
多角経営に踏み出すようになり、日本の農業の形を変えて行った。
昭和初期の貧しい日本の社会で75%は農家であるから、
農民伝道が何より重要であると考えていたようだ。
近江で「神の国」運動をくりひろげていたヴォーリズは、
「近江ミッション」の農村での拠点となった野田(野洲郡兵主村)に
キリスト教会館が信者や住民の努力などで建設された。
ヴォーリズらは、教会堂の献堂式を挙行する時(昭和2年1月)の説教者に、
これまで農村伝道に情熱を燃やし、野田教会を拠点に
農民福音学校活動に精励していた賀川豊彦を迎えている。
当日の説教は会場に入りきれないほどの多くの会衆を感動させたという。
昭和初期に近江野田教会の福音宣教にあたった牧師の一人である
近江金田教会の岡林勝治牧師は、フォークの神様と言われた岡林信康の父である。
教会の建築費の半額を近江ミッションが、残り半額を野田地域住民
の寄付金(教会員の献金)でまかなった。
野田教会が地域住民にに受け入れられ、多くの寄付金が集まった背景
には近江ミッションの活動や賀川豊彦の農民福音学校の影響が大きかった。
戦争が長引く中で、昭和19年(1944年)に食糧増産のため、
琵琶湖岸の野田沼干拓事業の事務所として野田教会は接収された。
やむを得ず、教会は信徒の田中格太郎宅の超大型農舎に移された。
この農舎は賀川豊彦の指導にもとづき近代的農業を実践するため
特に大きく作ったものであった。
野田沼の干拓地に大阪俘虜(ふりょ)収容所第23分署がつくられ、
オランダ兵捕虜200名(大半がインドネシア人でオランダ人は10名程度)が
つれてこられて、干拓や農作業をさせていた。
食糧調達に野田の集落にやってきた捕虜に、
野菜などの作物を与える等の心温まる住民との交流があった。
終戦になり帰還することになった白人兵が、
捕虜の監視役兼作業の指導役の田中憲一さん宅に、
不要になったたくさんの肉や砂糖などの食糧をもって、
やってきて村人に分けるように言い残していった。
野田住民とオランダ捕虜との交流は、野田村の人々が
放蕩息子の浦谷貞吉を改心させたキリスト教の教えを受け入れ、
賀川豊彦の農民福音学校で学んだ中で起こっていたことのように思う。
偶然にヴォーリズ建築の小さな教会が農村に残っていることを知って
いろいろ調べて行くに、100年以上前にこの村の放蕩息子、浦谷貞吉の改心があり、
そして、嵐の日にヴォーリズ一行を乗せた舟が貞吉の案内で野田にやって来たことから
この村での伝道が始まった。
琵琶湖岸の小さな農村にどうして、キリスト教が広まっているのか?
浄土真宗や天台宗が広まっているここで、どんな布教活動をしていたのか
そして、キリスト教社会運動家の賀川豊彦が来ていた。
ヴォーリズと賀川豊彦はつながっていた。
神戸に行くことが増え、賀川が暮らした葺合新川の賀川記念館へも行った。
社会の底辺の、血と汗にまみれた聞くも涙の賀川豊彦物語。
とりあえず、賀川豊彦入門書を買って読んだ。
格差社会の問題は広がるばかりの今の生きづらい世の中
貧しい人々の救済のため、社会の変革を求めて奮闘した
賀川豊彦の生き方に惹かれている。
賀川豊彦は親鸞や空海のようだと言う人もいる。
でも、現代にそんな高僧を私は知らない。
賀川豊彦にしても、ヴォーリズや新島襄にしても、
津田梅子にしても、キリスト教との出会いから始まっている。
貧しい人が増えている日本社会、賀川豊彦をもっと評価される時がやってくる気がする。